レビュー一覧
|
杉山さん(女性/専門学校講師) 「踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!」 7月12日、109シネマズ川崎にて |
私事ですが、好きなシリーズや気になる作品は『初日に観る派』なのだが、本作はどうしても引っかかる事があり劇場に足が向かなかった。しかし、踊る3の完成披露試写会や初日舞台挨拶の織田裕二さんの弁、また、雑誌やTVインタビューでの本広克行監督の発言を見聞きし、キャストやスタッフも同じ思いなのだと感じ劇場へ出かけた。 そう、『和久平八郎の不在』。2004年、いかりや長介さんの訃報に触れた時、もう「踊る」の新作は作らないでほしいと思ったのだが、作り手側も何も考えられず止まった状態になってしまったそうで、前作から7年という月日は良い時間薬だったのだと思う。 その新作は、全く期待を裏切らず実に面白かった。いつものゆる~いエピソードからの導入、気が抜けてしまう妙な事件、と観客が気を許した頃、たたみかけるように起こる多発事件、それらがこれまでのエピソードに集約されていく展開は圧巻だった。 しかし、今回の主役は紛れもなく不在なはずの和久さんだった。伊藤淳史さんが和久さんの甥役で出演し和久ノートを披露することは予習で分かっていたが、他のキャスト達が和久ノートを見入るときの表情を見て、どんなにこのシリーズで和久さんの存在が大きかったのかを計り知ることが出来た。和久ノートは後半の事件解決にも一役買っていくが、一番印象的なシーンは落ち込んでいた青島が、和久ノートの『死ぬ気になれ、その時だけ生きられる』という言葉に背中を押され、和久さんが付けていた『指導員』の腕章を見入った後、青島コートを羽織り動き出すシーンだった。そこで和久さんの声が一言だけ入る『人の希望になってやれ、なんてな』。あの独特のしゃがれ声、しかし優しさに満ち溢れている台詞、一呼吸おいての味わい深く、渋い『なんてな』。その声をもう一度聴きたくて、すぐにもう一度、劇場に足を運んでしまった。 役者、いかりや長介さんの道のりは決して平坦ではなかったそうだ。8時だヨ!全員集合の終了後、役者に転進するも最初は苦労の連続だったそうだ。それがNHK大河ドラマや2時間枠の刑事役などでキャリアを積み、木村拓哉さんの父親までこなし、たどり着いた集大成が和久平八郎だった。本作で和久さんへオマージュを捧げた「踊る」は新湾岸署へ引越し、新署長も就任した。新作「踊る4」の製作が早くも待ち遠しい。 |
男性・29歳/会社員 「ザ・ウォーカー」 7月9日、新宿ピカデリーにて |
今年1月の米国での初日興行収入が11億円を記録した、デンゼル・ワシントンとゲイリー・オールドマンによる豪華競演の話題作“The Book of Eli”には、なぜか「ザ・ウォーカー」の邦題がついた。しかし、日本の配給会社を見てなるほど納得。系列の出版社の看板雑誌の名前をそのままタイトルにしてしまうその潔さに私はすっかり感心してしまったが、少なからず商売臭漂うこのタイトルが果たしていかがなものなのか。つくづく、映画のタイトルがいかに大切なものか、改めて考えさせられる。 デンゼル・ワシントン演じる主人公イーライは世界崩壊以来、ある1冊の鍵付きの本を大切に持ち歩いている。そして道半ばにして、いよいよその本の“真実の価値”を知るゲイリー・オールドマン演じる権力者カーネギーとその本を巡って死闘を繰り広げる、というのが本作の見どころ。特に15分以上にものぼるノーカットの殺陣のシーンはまさに圧巻のひと言で、サスペンス・アクションとしても大いにスクリーン映えのする傑作と言える。 果たしてそのテーマを探っていくと、やはり現代の世界情勢に警鐘を鳴らし、まさに2時間をかけて(やはり日本人にはピンとこないであろう)“あるもの”の重要性を説く、実にアメリカ映画らしいメッセージ性を内含した作品だということが分かる。私は本作を見てすぐに映画「ミスト」(07)で、マーシャ・ゲイ・ハーデンが演じた女性を思い出した。彼女があのスーパーの中で起こした“行動”により、さらに人々は混乱に陥り、結果崩壊を招いた。彼女の持っていた“力”、それは本作の中で権力者カーネギーがなんとしても手に入れようとし、そして、主人公イーライがまさに命を賭して守ろうとしたものに他ならない。 イーライは強靭な肉体を持ち、そしてなぜか剣や銃を自らの手足のように使いこなす。そして彼は西へ西へと歩を進める。『西』というのは、もともと日が沈む方位であることから“死”の象徴とされたり、“衰退”を表す方角とも言われてきた。一方で、米ソ冷戦時代には、アメリカに与する陣営として西側諸国が強調された。恐らくイーライの持つ剣や銃は戦争兵器の象徴だ。現代の日本人にピンとこない“あるもの”を巡って対立し、抗争を繰り広げるのは、作品の中でも現実の世界でも全く同じ構図と言えるのかもしれない。 |
榎本泰之さん (20歳/大学生) 「告白」 7月2日 TOHOシネマズ日劇1にて |
本作の大筋はこうだ。自分の悩みなど理解できないと大人を突き放す中学生。そのもがきを簡単に踏み潰す教師、森口。その教師が二人の中学生を相手に慈悲もない、容赦もない復讐を繰り広げる。 だが、その復讐がどこまで徹底していても、爽快感はない。無力な中学生に下される罰はとことん重く、我々の気持ちは娘を殺された教師よりもむしろその教師に復讐される生徒への同情にいってしまう。少年法という壁に守られることなく、社会的に精神的に崩壊していく二人に、もはや希望はないのだ。映画「96時間」(09)で、娘を誘拐された主人公が闇社会の人間を何人殺しても、観客は彼を応援し続ける。だが、本作では娘を殺された森口がたった二人の中学生に復讐をしただけで、観客にとっては悪人になってしまう。この差には、中学生だから、大人だからという潜在意識がある。だが、そんな差別的な潜在意識があるからこそいじめが起こるのだ。それなのに、問題を起こす子供に対し、大人は「命は重い」、「いじめはいけない」などの言葉をぶつけるだけ。何故命は重いのか?何故いじめはいけないのか?知るよしもない。 それを象徴するのが、『私は二人に、命の重さ、大切さを知ってほしい。それを知った上で、自分の犯した罪の重さを知り、それを背負って生きてほしい』という森口の言葉だ。いかにも二人を気遣っているようだが、実際にこの言葉は口先だけ。命の重さについて問題を提議しておきながら、本作ではそのことを考えようともしない。これは現実でも同じである。命は重いという結論だけが先行し、命の重さについて議論する人など一人もいない。だが、自分で考えることもしないで命の重さを実感できるはずもない。命が他の何よりも重いとすると、矛盾が生じる。この物質主義の世の中においては、必ず比較対象が必要なのだ。命は何より重く、そして何より軽いのか。 では、いじめはどうだろうか。我々はいじめの原因を本人の性格や個々の家庭環境に見出だそうとする。だが実際は、誘発しているのは大人の先入観であり、潜在的な差別意識であり、それを助長するような社会的風潮である。子供の間で起こっているいじめにも、結局はその背後には大人がいるのだ。 成長発達において、子供が受ける影響はたった二種類しかない。それは、遺伝と環境だ。そしてその環境とは、この社会においてどのような環境で育ったかということ。犯罪の低年齢化が進む中で、変わっていくべきは学校教育でもなく、根幹にある社会全体なのだ。 |